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<区民レポーター>二つの意味合いでの原作とは異なる試み

『マクベス』

鑑賞日:3月14日(日) 14:00~
女性

 「きれいは汚い、汚いはきれい。」太鼓の音の高まりの中で対照的な言葉を重ね、お芝居の世界に誘う劇の始まりは、もはや野村萬斎ならではの妙技ともいえる。汚い魔女とまばゆい騎士と妻たち、どちらが美しくどちらが汚いのか。劇の最後、マクベスの肉体から白い純朴な花が生える。きれいは汚い、汚いはきれい。白い可憐な花を見ながら、結局美しいものは何もないのではないかと、何か問いかけられたまま答えを持たずに投げ出されたような気持ちで帰路についた。

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撮影=石川純

 原作マクベスは、典型的な悲劇といえよう。一人のどこにでもいるような若々しい騎士が運命という魔女の言葉に操られ、悪女の妻に誑(たぶら)かされ、身を滅ぼしていく。悲劇は見る者に、その騎士が巻き込まれていく運命の無情を共感させることで、日頃たまった不満や悲しみ、苦しみを洗い出させ、平安という日常に帰す。だが、萬斎のマクベスは二つの意味合いで原作マクベスとは異なる試みを行っているように感じた。
 
 第一が、マクベスはあまりに個性の強い役者であり、彼のえぐさは彼の妻を上回るものであったことだった。本来マクベスは、誰でもいい大根役者でもできる、ありふれた存在という演技を求める役である。だが、この劇におけるマクベスは純粋というにはあまりに才たけていて、操り人形を逸脱した個性を持っていた。だからこそ、一幅の絵にするならばゲルニカのような荒々しいどぎつさが、この劇を支配していたように思われる。
 
 この劇が普通のマクベスとは異なる要因はそれだけではない。悲劇に萬斎が付け加えた「きれいは汚い、汚いはきれい」という問いかけは、悲劇を見終わった後に感じる悲しみの浄化、平安すら我々から取り上げた。何が美しくて何が醜いのか。悲劇の最後に取り戻された平安は、またしても悲劇の始まりであるかもしれない。萬斎は、我々の価値観をどんでん返しすることで、暗澹たる絶望を我々に投げかけているように思えた。劇は時代を反映する。政権交代をしても何も変わらなかった。我々が今抱えている、先の見えない不安と失望、幻滅が、いかにも清純な白い花の中に見えたように感じた。

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2010年04月01日 21:52に投稿されたエントリーのページです。

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