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<劇場ブログ> 『まちがいの狂言』をめぐって

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『まちがいの狂言』をご覧の皆様の中にはお待ちいただいていた方も
おられることと思います。当日配布パンフレットの中で予告いたしました、
演劇批評家・佐伯隆幸氏 『まちがいの狂言』をめぐる語り全文を掲載いたします。

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『まちがいの狂言』をめぐって――公共劇場ってなんだろう
<劇場ホームページ版>

インタビュー:2010年12月9日

語り手:佐伯隆幸(演劇批評家/学習院大学教授)

◆前口上
 
 公演プログラムに掲載するために、強引に語りの長さを縮めた感もあるし、その制約のなかで、本来丁寧に定義しつつ語るべき「言葉」も無造作に置かざるをえなかったことは間違いないので、たまたま世田谷パブリックシアターのホームページにこのわたしの語りの続きを載せるという経緯になったので(必ずしもその舞台の「提灯もち」をしているわけでない稿の連続を自分のところのホームページに掲載することを快諾した芸術監督と劇場の姿勢に語り手としてお礼をいわなくてはならない。こういう身のさらし方はとても潔いと思うし、だれといわず、創造者と批評家とが今後も、また別の場所でもこんなふうに、一種「開かれた」関係にあるのであれば、そのことはおそらく日本の演劇にとっても決してわるいことではない、と、日本の演劇の批評家の代表でもなんでもない、むしろどちらかといえば、「時代」や「状況」、「現実」について悲観的にすぎる傾向の強い、やや「演劇嫌い」のところもあるひとりの演劇批評家――それにしては、劇場に通う頻度は呆れた度はずれ方――、演劇を思考するひとりにすぎぬ者が口はばったいことを述べる次第)、ひとまず語りたかったことの主旨をあらためて広げてみる。したがって、これから語ることはすでに公演パンフに載せたエッセンスの部分が重複的に混じることになろう。語り手みずからが稿の読み手を枠づけるつもりは毛頭ないが、それでも、受けとめていただきたいのは、個々の細部というより、それらがつながってできる文脈であるし、いわばそれに尽きる。

 ところで、わたしはインターネットというものをやっておらないし、書物を書いたことはあるが、こういう頁に自分から出るのは生まれてはじめてである。本とこうしたものとはどう受け手によって異なって受けとめられるのか、あるいは、異ならないのかをなにも知らない。だから、二〇一一年が明と出るか闇となるか、出立はまずはこわごわ、仮想の読み手や受け手の反応を“盲目で”探りながら、実地を推定しながらである。そういう意味では、いい足りない点もいまだ無謀な点も、または、逆に挑発的なところも残るにちがいない。それはそれで仕方あるまい。わたしは俗にいう「空気」のようなものと議論する気も予定もない。名乗りを挙げて下さるなら、その発語が論議に値することであれば、応接できる場所や機会が、身体があるなら応接にはやぶさかではない。対応できないことはできない。わたしはいつだって相当慎重で、かなり身構える癖に、大雑把には「ノー・ガード」であり、そのうえで可能な限り率直でありたいと思っている。それがこの四〇年のあいだに否応なく身についてしまったスタイルだ、これは最期まで直らないだろう…。
 以上、念のための前口上。では、はじめます。


◆『まちがいの狂言』のシンプルで複雑なややこしさ

 「萬斎さん」と言っていると字数が増えるから、萬斎と呼ばせてもらうけれど(笑)。
萬斎の舞台のなかで、僕は『まちがいの狂言』はとても良い方だと…良い方というと冷たいけど、これはとても好きなんですね。笑い転げた。身贔屓はしませんし、僕はめったに公演プログラムには書かないように意識的にしているけど、この舞台は痛快、かつナンセンス、無性に笑えるところがとてもよくて、それに、台本作者、亡くなられた高橋康也さん(※1)がなさろうとしたことを忘れてはならないと思うので、今日は話しにきました。

 要素はいくつかあるけど、まずは、この芝居は自己同一性をからかう劇だということです。自己同一性の確定を笑いものにする、からかう劇というのは、もともとたくさんあると思うんですよ。ストレーレルが演出し、かれの十八番だったゴルドーニの『二人の主人を一度にもつと』なんかもだし。同一性の「間違い」は他人にとってはげらげら笑えるんですね。そして、このことは演劇にとっては意義深い。演劇自体、俳優が演じているフィクション。つまり、演劇そのものが自己同一性に疑問を差し挟むジャンルなので、そのあぶり出しが非常に面白い。康也さんの領域ではベケットとかナンセンスとかという問題に完全にだぶってきて、そのあたりが体感できる。とても軽く書かれているけど、「ややこしや/ややこ こいしや」という台詞が可笑しい。これだけで笑えるというか、“ややが恋しい”というのもそうだけど――『山椒大夫』を思い出すといい、結末の盲目のお母さんの恋歌はともかく、よくあるのは「母恋し、親恋し」でしょ――、それが“ややこしい”と重なると、そのややこしいのが「演劇」なんだということがうまく呑みこめる。人間の自己同一性をめぐる話はいつもややこしいんだ、この本の元になったシェイクスピアは、『十二夜』をはじめ、そのことを非常によく知っていた。そこから、自分がだれなのか分からなくなるベケットの人物まで、演劇には相似するような題目が底流しているな。その自己同一性が確定しているかのごとく、幻想しているわれわれ、客が笑っている。本当は観客も自己同一性をそこで疑われているんだという気がするわけ、それだのに笑い転げるんだ。それは狂言だから笑い転げるのか、そこはまだなんともいえませんが。狂言を上手く使ったというか……上手くというとなんだかあざとい意味になっちゃうかもしれないから、そうではなくて……大変“正直に”使ったということですかね。要するに、康也さんのエスプリが、ある種西洋的なエスプリがここにあるんだと思う。「淡路島」というのも出てくるけれども(笑)、別に列島誕生の『古事記』の世界じゃなくて(「堺」とか「屋島」があるから、瀬戸内海ほのめかしは明白にあるにしても)、これ、地中海でしょう。
 
 「ややこしや ややこしや」というのをただ無限に反復している、いってみればものすごく莫迦な(笑)、ナンセンス話ですよ。だけど、人間の存在、同一性というのはややこしいんだということ。つまり、疑ったら、社会的同一性に問題が起こるから、固有名詞にせよ、言葉と意味の関係にせよ、われわれは通常は疑わない(振りをしている)だけで、劇場では疑わなくちゃいけない。劇場では疑われるものとしてある。一回チャラにされてしまう、なんか怖い場所なの、劇場は、大体において。僕の考えでは。なぜだかよく分からないが、古代ギリシア以来、ひとはそういう空間をもとめるんだ。そうすると、舞台上にいる者、たとえば俳優も疑われているはずなんだよね。だから、それに引きずられて、観客も金を払った以上平気で笑いながら、かつまた、その金銭関係、現実をどこかで疑っているんだろう。劇「芸術」はそこで成り立つ、そこのきわどい場でしか成りたたないのだともいえる。この点において、舞台や劇場は虚構でもあるし、そして同時に、実在する現実でもある。これってとても不条理、途方もなくややこしいですよ。金銭が必要で、その現実が介在しているのに、その関係があたかもまったくないかのごとくふるまえるし、事実、観客はそのようにふるまうんだから。

 不条理でまとめてしまうのはやや雑だけど、ついでにいっておくと、女房その他の扱い方もベケット的ですよね。ベケットは女性の扱いが古風というか、多少ともマッチョ(男性主義)的。『おお 麗わしの日々』を除くと、女性はあまり出てこないし、出てきても、当然「ヒロイン」みたいな役ではなくて、もう朽ち果てた、皺まみれの「婆さん」だったりする、総じて薄情な傾きがある。実は男もここは一緒ですが、まあひとの生とはそういうもの、老後、つまり、死の手前しかないんだ、と。ベケットだから許されるというと、なんのことはない、僕自身が古風になってしまうけど、おまけに、ベケットって作家は話として「不倫」や「姦通」が大好きだから(笑)。この類いは現実に味わったら大事でしょうが(笑)、モリエールでもなんでも、芝居の話としてはいつでも笑えるんですね。この作品では、色女っていうのが茶屋にいて、それに「お力(りき)」というお相撲さんみたいな女性が出てくるという設定だけど、康也さんはシャイな方だから、そこらあたりはあんまり露骨に出さなかったんだなって、よくわかったんです。本当はベケットくらいまで出してもよかったなと(笑)、望蜀の感さえある。もう亡くなられた方だから、それをいえないことが残念なんだけど。そうすると狂言という枠組がもうひとつ括弧に入れられるかなという気がするのね。ま、この作品は小品だけど、とても痛快であるというのが僕の印象で、徹底して真っすぐナンセンスにしているという点もいいと思う。無性に笑える「間違い」の、莫迦莫迦しさとでもいえるものがうまく出ている。
 ただ、野村萬斎という俳優にもややこしさがつきまとう。その、狂言師、ないし役者が同時に芸術監督であるという問題、これ、かなりややこしいことだと思うのですね(笑)。


◆「越境する伝統」 一点突破の芸術 

 そして、これは必然的にもち出さざるをえない。渡邊守章さんが去年出版された『越境する伝統』(※2)というこんな分厚い本には、東と西の前線がぶつかりあい、白熱して、そこで宇宙論的なドラマを繰り広げるというわくわくする一節がある。文脈抜きに引くのは基本的にはまずいのですけど、この場合仕方ありませんから、一節だけちょっと読んでみます。

 「[…]一九八三年にやはり国立劇場の委嘱によって作曲、初演されたジャン=クロード・エロワの声明と雅楽のための大曲『観相の焔の方へ』は、文字どおり西洋世界と東洋世界の接点にあって、燃え上がる巨大な火の交響楽と思われた。冒頭、舞台奥の大セリによって火焔太鼓がせり上がってくるという光景は、多分日本で初めて見る衝撃的なスペクタークルではないかと思われたし、金羅目のタイツの美少年の菩薩のような踊り手もそれなりに魅惑的であったが、最も感動的であったのは、終曲の、無限に廻り来る焔の<強度>が、逆に一つまた一つと退場していく楽器の減少によって暗示され、最後に一管だけ、しびれるように吹き続けられる笙の音が、宇宙の根源的理法である<火>そのもののように感じられる光景であった。/作曲家自身による哲学的な解説が、ハイデッガーやヘラクレイトスを夥しく引用して、<火の形而上学>を語っていることに眩惑されたわけではない。私自身の中には、クローデルの長編抒情詩『恩寵であるミューズ』の終局の、宇宙の封印が切られ、炎の中で神を称える魂の声が、真夏の太陽の炎と光の中で鳴き続ける蝉の声に喩えられている光景が自然に甦って来たからであり、同時に、ヘラクレイトスからニーチェを経てハイデッガーに至る<火の詩法>がその現(うつつ)の姿を取ったようにも感じられたからである。笙のことをフランス語では『口で吹くオルガン』と訳すが、確かにそこには西洋的形而上学の宇宙においてオルガンの果してきた“神学的な役割”が見事に取り返されていたのである。/それは単なる考証学的再現などではなく、まごうかたなき現代の音楽であったが、同時にそれは、西洋と東洋との、こう書いては如何にも粗雑に思われようが、そうしか書きようはない大きな二つの世界の“音楽的知の対決”であり、それを一つの音楽として、“宇宙論的に仕組んだ”作品なのであった」(第五章「越境する思想、あるいは知の脱領域」より)。

 ものすごいですね、難しい固有名は気にしないで。そこらはどうでもいいんです。渡邊守章という語り手の言葉の音律に耳を傾けるだけでいいんだと思う。僕は、この舞台を含め、こんな「巨大な」、奇蹟的なものは一度も観たことはないし、「真夏の太陽と蝉の声」といわれれば、「八月十五日」を思い浮かべるような世俗的な男で、「神学」なんか分かるはずもない、それでも、ああ、この「声明」舞台は是非にも観たかったな、だけど、この守章さんの批評で概ね察しはつくし、想像はできる、ただこの語りのリズムに身を委ねておればいい、と直観するんで(僕は演劇に対して非常に疑り深い批評家ですが、信ずるときはまともに信じます)、これ以上は挙げられた具体的な舞台のことには言及しませんし、それから、批評家としての僕はこんな途方もない舞台経験をつねにもとめているわけではない、そんなものは望み薄だろうと悲観している。ごく純朴に考えて、山田せつ子さんのダンスにだって、もしも「西洋世界と東洋世界」というなら、そういうぶつかり合いが踊る身体に間違いなく刻まれていると思ったし(近作の『薔薇色の服で』でダンサーが、土佐の「絵金」ふうに、金泥がその顔その他にこびりついてゆきつつ舞踊する「光景」はこれまたなかなか、息を呑んだ)、そういう火花が散る瞬間はときにあると考える派です。巨大なものに限らず、小品には小品の世界もあって、つかめるものはいつだってつかめると思うんです。軸は全然異なりますが、康也さんのテクストを話題にするのだって、おそらく相通じる眼からでしょう。
 
 とはいえ、申すまでもなく、守章さんの提起は無視しがたく重要ね。かれの認識では、「伝統」が「越境してくる」域がある。この本では、狂言であれ能であれ……能だろうね、語られているメインは。それは、おそらく、いま(のところ)「越境」はしてこない(観世寿夫や榮夫という方々はいましたが、ふたりとももう冥界にいってしまいました)。僕は、勉強しているものが特定的にはフランス語の現代演劇と日本の「アングラ以後」で、それにほぼ限定されるし、守章さんと違い、きっと伝統芸能について僕のなかにそれほどの把握力というか、幅がないんだろうとは思う。教養の深さたるや端っから勝負にならない。見巧者でもない。能はなるほどかれと亡くなられた萩原達子さんからの刺激で近年頻繁に観ることになったけど、やっぱり一般教養のレベルにすぎないし、能で心底ぞくぞくした覚えはそうない(この語りのあと、世田谷で観た『安達原』の鬼女には戦慄したが)。狂言は面白いと知っているけど、なんか、萬斎のこれが一番面白いと思っている、僕が観た少数の出し物のなかではね。

 で、守章さんは、この本で雅楽から論を開始するわけだけど、雅楽から文楽までという幅ですね。もちろん、あいだに能があります。声明(しょうみょう)、つまり、梵唄(ぼんばい)、密教系の音声芸能とかいろいろなものが入ってきます。歌舞伎がいま純粋に伝統芸能といえるかは疑問符がつくし(「梨園」といったって、下半身は商業演劇でしょう)、声明は伝統のみならず、現在もあるわけですが、まあ発生と存続の問題があるでしょうね。守章さんのいわれる「起源」と「受容の歴史」ということです。明らかに、日本だけに残った芸能様式というか――守章さんは雅楽について「幸福な偶然によって」、「その起源における作用と、日本における受容との間に大きな“ずれ”があるような芸能が、その歴史と共に現存している」といわれる――、日本にだけあると威張るんじゃないんですよ、大陸起源の儀礼や宗教の問題と日本に入ったときの宗教的、ないし世俗化していくあり方と受容の歴史、そして、その「受容」史の結末の「いま」という何層かがあるということでしょうね。それを「わが国」とかいって丸めると単層になりますし、いまさら、またぞろ、かれのいう「新たな起源神話」をでっちあげるということにもなりかねない、そこを「批判的に」考えろということですね、守章説は。僕はそれに賛成です。賛成ですが、「起源」から一々考えるわけにいかないから、受容された「いま」の状況から発想するほかないという立場なんですね、僕は。声明はやや違うにしても、能も狂言も文楽もまさに「伝統」の「芸能」なのであって、“そのもの”が日本の現代演劇ではないということです。これはあとで話しますけど、それを“アジア”とかなんとかいうと、もう全然だめです。もつれた話になるので、単純に日本の「現代」といいます。その場合の日本は、要するに地域にすぎない、僕にとっては。やむをえず生きている国ということでしょ(笑)。母語は紛れもなく日本語であり、それに規定されていることは認めますが(だから、狂言に関心をもったりするわけだ)。おそらく僕らはやむをえずここにいるんだという、その認識が大きい。演劇や文化というのは、伝統はあるかもしれないけど、その伝統も正確に押えて媒介しつつ、あるいは、格闘しつつ、やむをえずそこにいる者が、そこで「いま」何をするか。そこだという気がする。つまり、それぞれの言語にからまる固有の場だよね、漱石みたいにロンドンで神経症になったりする場合も含めて、固有でいるようで引き裂かれてもいる場にいるんだと。そこで表現をするんだと。僕は守章さんの本をそう読んだ。属地主義とはいわない、いつだって一点突破。あらゆる、もはや固有ではない場所から固有に一点突破してくる芸術家がいると。

 だから、越境してくるのだったら、僕はぞくぞくするし、乗るだろう。ただ、越境する以上は、「仕掛け」を使っているのとは違うだろうと思うのですよ。これが実に微妙。この狂言は、つまり方法でもあるし、ボディでもある。方法として使っていることは如実にみえていて、シェイクスピアが透けたり、ゴルドーニが読めたりすることはいいのだけど、それは同時に表現の「肉」でもあるはずでしょ。この“ややこしや”そのものが舞台なんだから。ひたすらそれが続く、そこはとってもいいと思うんだ。この黒衣の面々―“ややこし隊”がね(笑)。これは仮面であること、匿名性というところがいける。ややこしいということを騒いでいる面の集団がいる、それが面白い。ところが、それが役(者)になって、「顔」が出てくる、面のような顔(主人役はそれでしたが)というよりは表情豊かな近代的面立ち、その顔が狂言なら狂言の様式を使っているのか。ただね、使っているということだけでは、伝統が越境してきたという式に自明にはならないだろう。守章さんいう「魂」というものが要るんで、狂言はただ便利な方法ってわけにはいかない。萬斎には家元の御曹司とか、種々「役」もあるだろうし、やたらな難詰はしないけど、ある意味では成功しているとはいえ、これを狂言の現代化という風にすっきり考えられるかどうかは難問よ。要するに、伝統は伝統、受容史レベルで一回どうかなったものは、どうかなったままなんだ、そこから生き延びてくるかどうかの問題は単なる活用の仕方ではなくて、別のことだという気がする。回帰や転用は別に越境ではないし。それに、活用すら、その芯の場所に売れている顔を置けば自動的にできるという性質のものでもないんじゃないか。難しい問いだけど、俳優が芸術監督であることのややこしさってそこにふれてくると思うよ。


◆公共劇場10年と演劇の現在

 やっと最初のテエマに届きつつある感じ。そこで、シアタートラムの公演時にもらったチラシ束を、相当重いけど、参考資料に持ってきました(笑)。現在のチラシの80パーセントは役者の顔、それも複数の顔、顔ですよね。たとえば……、あ、この『春琴』は違います。これは一人ですし、顔を売るというのではなく、作品イメージとしてのビジュアル、こういうのをいっているのでは当面ないんです。つまり、たとえばこれとかこれ(チラシ)もそうだし、これはわかりますよね(笑)。些細なことに目くじらをといわれるかもしんないけど、なんでもないことをきっかけに着想し、それをしゃべるんです。

 問いから先に。つまり、僕たちは“こういうもの”を見に芝居に行くのか、そのために劇場に行くのかと考えこむんだ。ある時代、偶然かどうか、たぶん「公共劇場」と呼ばれるものができてからこうなった。で、どんどんどんどん増殖、瀰漫している気がする。チラシを飾る顔また顔は、要は系列が違うだけで、概ね同じかひどくよく似た像ですよね。流れとデザインが違うというだけで、差異は皆無という状態。ただひたすら在る、10年前に比べ。40年前に比べるともう想像不能、恐ろしいまでの膨大さ。それがいいことなのかなと思うのです。事実、演劇が40年前や10年前から展開したり、発展したり、何か根づいたりしているのだろうかという疑問が、劇場でチラシの山を見るたびに即座に湧く。便利かもしれないけど、この単彩にまこと飽き飽きする。尋常じゃない。舞台を観たときにそうなるのは僕の癖にすぎないということで済むけど、これらのチラシをもらった瞬間にもう……、つまり「顔が先に見えているもの」、そんな流通なら観たくないって思っていいんじゃないかと僕には感じられたりする。断じてこういうものを僕は観に行くんじゃない、と。だって、劇場は自己同一性の揺れの場所なのに、事前に写真という自己同一性が用意されていて、その枠中に演劇は事実在りますと謳っているようなものでしょ。驚きのあらかじめの解除、面白くないよ。なんの徴だろうかととても訝しいんだ。そして、“これ”って役者(俳優=演じ手)なのか「ひと」なのかという小さくはない問いを呼び寄せる。一体僕らが見せられているのは、俳優なのかタレントなのかキャラなのか、役者なのかそれで稼いでいるひとなのか。それを曖昧にしつつ、はっきりいえば、どれでもあり、どれでもないとごまかしごまかしつつ……つまり、「仕掛け」にしているということですよね。もちろんこれは俳優の問題ではなくて、演劇の構造的問題さ。で、この(写真の)方々は要するに、俳優でもあるし、「仕掛け」でもある。萬斎は二枚目だし、声もいいし、同じような陥穽にはまる可能性がやはりなくはない。俳優(チラシ写真の)である前に演劇人でないと、芸術監督は。というか、話を前に戻すわ、もしもこの方たちにどちらなのとじかに問いかけたら、「いいえ、俳優にすぎないです」っていうかもしれない。それじゃあ、俳優として“本当の軍人”もやるか、と聞いたら「やります」となりかねない状況じゃないか、極論も極論をすれば。写真が(現実の)人格を先導し、作為しているように映るからです(僕は俳優とは人格をもたない存在だなんて考えたことない)。先手を打っておきますが、こういうことは演劇の職業化や演劇の公共性とは一切無縁だし、むしろそういう問題を隠蔽する装置です。ちなみにいうと、あとで出す太陽劇団の七〇年代の『メフィスト』って舞台は、のちに第三帝国、すなわち、ナチ国家の秘密枢密顧問官兼国立劇場総監なる地位まで成り上がる実在の俳優グフタフ・グリュントゲンスをモデルに作家クラウス・マンが造型した人物を主役とする物語で、その男は劇の大詰めで「おれは一人の役者にすぎない」と絶叫する。太陽劇団の舞台の意味はその枠自体への歴史的批判です。演じただけだといおうと、特段になにも免責してはくれないということですね。どういうのかな、劇の虚構というのは現実があるから成り立つということでしょ。なのに、いまはどっちが虚構で、どっちが本当なのかまるで分かりにくいわけじゃないですか。ここ(チラシ)に載っている写真の方が舞台にいるのか、ではなくて、舞台にいるひとがこの写真の方なのか。ここには、すぐばれる仕掛け、みなが知っているのに口にはしない幼稚なからくりがあるわけでないか。この演劇界の80パーセントはその仕掛けを動かしているだけと映る、僕には。角度を変えて見せる。次の芝居は、〇〇〇の役じゃありません、△△△ですよと角度を変えるだけのようにみえてくる。結構だが、それがこの山の堆積、これはもうただ事じゃありませんよ。

 そして、綺麗な劇場がいくらあっても、結局そこに落ち着くんだったら、劇場はなんのためにあるんだと。つまり名の知れた役者が銭稼ぐ用にあるのかという話にもなるし――「才能」をもっている者がそれで働くのはむろんわるいとはいいませんよ、でも、それ以外のもの、名とかタレント性とかで稼ぎ、しかも、その稼ぐ者が実に限られた数にすぎないというのであれば、依然問題ある――、それだってとてもたかが知れた数じゃないの。全部集めたって、顔が知れている者はおそらく東京で千人いないでしょ。これって演劇の根源にかかわってくる。つまり、僕たちは俳優を見るのか、舞台で演じられている役(者)を観るのかという問題にとことん関係するのではないですか。演じている者と演じられている者、だれしもそのふたつを劇場では観ている。けど、僕の知覚のなかでは、同時に客席にいるそいつをも観ていると思うよ。俳優というのは3つあると思うんだよね。演じる俳優、演じられる俳優、そして客席にいるかれと3つあると思うんだ。加え、個人的には、この3つをもっていない俳優はだめだと思ってる。本当はつねに客席にいなきゃならない。つまり、舞台でやたら演じたり、個性を出さなくていいから、客席にいる、そういうことを観る観客がいるかもしれないじゃないかと僕だったら思うよ。それをすべての俳優に要求したらパンクするから、演出家や芸術監督が存在するんでしょうに。

 なるほどすべて世のなか、巷がそういう風に「仕掛け」になっているんだということが背景にあるんだな。いまの浮世の「仕掛け」には、いくつかパターンがあるわけであって、あるパターンを間違えた場で使うと厄介だ。その仕掛けに従って、多くはおとなしく生きている。駅でよく放送されているね、「黄色い線の中に入らないでください」って。でも、なんぼでも入っているわけだし、走っている方もいる。放送なんかだれも聞いていない。僕は聴いている。うるさいなとね。もちろん僕は黄色い線のうちに入らない。そんな挑発は駅員さんに気の毒だし。この音、サイモン・マクバーニーの『春琴』の改訂ヴァージョンに出てきたね。あっ、やられたと思った。電車のなかのケータイだって一緒、交通機関が一番典型的だけど、つまり、恐ろしく自由じゃないんだよ、もう僕らは。放送の義務というか、サーヴィスによる強制とそんなものを無視するただの自堕落のお見合いとずれ、野放図が専制している。「自由の専制」という言葉は好きだけど、ジャン・ポール・マラーの言葉。自由が専制しているんだったらまだしもいいよ、そうじゃなくて「奉仕」の振りと自堕落の野放図の専制という図。どちらにも公共の「魂」がない、問題はそれ。煙草の禁止はきわめて象徴的さ、舞台だけは吸える。舞台は自由なのか、けれども、現実の幅しか虚構はありえないし、舞台だけが自由なんて、そんな「公共劇場」は絶対ありえないね。いまこういう時代に芝居の場所である劇場にだけ自由や「真実」をもとめるのは実にパラドクサルだし、酷であることは承知しているよ。そうはいっても、舞台には、これ自体逆説的だが、他のあらゆる芸術表現と違って容易くは裏切れない「身体」という魂があるんだから[ここまで赤を入れたところで、好都合にも『公共劇場の10年』という本が贈られてきた。伊藤裕夫・松井憲太郎・小林真理編著、美学出版。とても眼を通す暇はないのだが、ちらり、こういう小林さんのくだりが飛びこんできた、「いまや『無駄を廃する』を標榜する行政構造改革と、未曾有といわれる経済危機により、モノの豊かさが脅かされているような幻覚に襲われ、あたかも心の豊かさを求めることが何か贅沢のように捉える傾向が強くでているように思う。もちろん日々の暮らしに困る状況の中で、何をおいても文化ということにならないのは確かであるが、文化は高額所得者の所有物ではないし、苦しいときこそ文化に助けを求めることはよくあることのように思える。いや、苦しいときに文化を選択するという選択肢がないことこそが問題なのではないか。私たちの社会はそのようなものであっていいのだろうか。その問いに答える際に重要なのが『公共性』という概念である」。そうか、諾える点はあるものの、果して「心の豊かさ」みたいなカスカスの標語のために「公共劇場」はあるのかとただちに問いが起こるし、巷で昇り旗を掲げてマイクで「ご通行中のみなさん…」と歩き煙草抑止キャンペーンに懸命な「バイトの失業者」という陰惨なパラドクスがこの程度の「公共性」でなんとかなるものかを頭を冷やしてお考え召せ。情勢はそういうところにあるのだ。かれらが職を得ることの方が「劇場法」などよりはるかに大切だろう]。演劇人というのは、つまり位や名刺や仕掛けで生きているんじゃない。そんなものはCMにすぎない。等身大だけで生きている。いくらギャラをもらおうと、そういうものじゃないんだ、芸術は。お金もらえる仕事は応分に、ノーギャラほど必死でというと誤解を招きかねないけど、それを憚らずいい切ってしまえば、やや的を射ているか。ほんと、ややこしいなあ、われながら考えることが。俳優もつねに、演劇人としてなに考えているのという問いが同時になくちゃ困るの。いまの東京の全体の演劇がどこかで根源的にずれてしまっているのはこの問いの欠如じゃないかな。このチラシの正気の沙汰じゃない量と写真を見る限り。

 だから、公共劇場の芸術監督ってなんなのかといったときに、まずその問いを体現している場だというふうに思う。先日僕は、世田谷パブリックシアターの講座に、十八世紀のフランス演劇や革命祭典が専門である八木雅子さんと一緒に三回呼んでもらって、フランスの民衆演劇と公共の演劇というレクチャーをした。公共の演劇が出発するのに2世紀かかった。それでも、完全に実現をみたとはいえない。10年やそこらでどんな決算が出せるのか、と。なるほど60年代に太陽劇団(※3)のようなものは生まれた。太陽劇団について、いまの僕はとても両義的です。だけど、少なくとも「国立民衆劇場」とか、あるいはロジェ・プランションとか、50年代から60年代にかけての運動で、各地に「演劇センター」や「文化の家」をつくるところまではようやくいった。頑張ったのは文化省の官僚だったジャンヌ・ローランです。彼女が押し進めた、戦後、演劇の地方分散化と民衆演劇運動の続きたる公共劇場構想を。そのなかでジャン・ヴィラールがアヴィニヨンのフェスティヴァルを開始するとか、その後も多々紆余曲折があった、今日そのことは蒸し返さないけど、その世田谷でのレクチャーで話しているときに忽然と甦ってきたの、「ヴォロンテ・ジェネラールvolonté générale」という言葉がぼくの脳裏に。(黒板に)書くね。これは横文字で言ったほうがいいと思うから。


◆ヴォロンテ・ジェネラール(「一般意志」)

 パンフ(プログラム)では字数が少ないものだから、「ボロンテ」にしました、わざと、です、「ボランティア」という語の親戚語であることを意識してもらおうかなと気張ったんだね。あんまり効果なかったが。ルソーですね。「一般意志」という意味です。いまの日本語には「意思」という言葉しか流通していませんが。ひたすら「思い」ね。ただ、僕にいわせれば、この言葉は詐術です(意思の「思」にバツ印。「志」に直す)。いまの世界はこの言葉、「意思」、ボランティアと思いに全部してしまったわけだ。だから、僕は「一般意志」と表現する、古くても。かつてあった「民衆」、つまり、「一般意志」って、考え方によってはもうれつ大変だ、さっきの「自由の専制」どこの比ではない。つまり民衆のことを一般意志と呼んだ時代があり、「民衆演劇」はそれに沿って考えられたんだ。プロレタリアというのが実在する思われた19世紀と20世紀でもかすかに。いまやプロレタリアというのはとても実感できないだろう、日本では。労働者も微妙でしょ。やっぱりもっとも根っこの場、理念というか、表現の根拠の場に一般意志というのはないといけないという話になると思うんだ。それってなんなのかというのを一回、ないしずっと問うていなくちゃまずいという事態にいたったと思うんだよ。僕はそこから再度考えたい。
ヴォロンテ・ジェネラールというのが根源にあると思ったひとがいる、ルソーという。このひと、演劇が嫌いよ。演劇でむしろ一般意志が奪われると思っているんだから、祭りの方が断固いいと考えた。民衆という/の「魂」は表象(=振り)にした瞬間に奪われる。「演劇」を廃して「祭り」にすべきだと考えたの。なるほどけだしよ。けども、祭りは今日不気味だよね。いたるところに蔓延してしまった。僕の住んでいる町なんて、北口と南口で1週間置いて小さな祭りをやっている。村よ、規模は。つまり、擬似的な催し=出来事主義、人工的な祭りだね、いまあるのは。ルソーのいう「祭り」とは違う。街を歩けば分かるけど、消費文化が、CMが祭りというのを盗んだのだな。毎日が祭り。“年末年始はイベント食事”ってどこかに書いてあった。まだこのうえかいと嘆息した。

 生きていくことをイヴェントにしろという煽動ね。その意味では、つまり、そういうのに囲いこまれているわけだから、いうまでもなく、演劇は超大変だよ。演劇という表現はイヴェントではない。一般意志というのを形成しようとする、あるいは見つけようとする場だと思うんだ、僕は。そのためにとりあえず身体表現というのを使うんだ。革命は使わない、政治は使えない。だから芸術を使うんだ。政治を使ってうえからやるのなら簡単。これが一般意志だとだれかが僭称して押しつければいいんだ。それはポピュリスムという名のファッショ。ファッションじゃないよ、いや、ファッションに似ているか、いまは、みんなが流れに従って同一の振る舞いをすることだから。要するに「仕掛け」だと思っているわけでしょう。CMであれ、なんであれ、みんな、ご飯を食べることも学校や単位も仕掛けだと。もし仕掛けじゃないという先生がいたらどうする? 青ざめるね。学問や芸術は「仕掛け」じゃないということを一度信じてくれないか。そのうえで「仕掛け」としてこういう「業」や「術」もあるなという話なら抵抗はあれ、まだしも分かる。わかるよね。
その先に、方法という問題はあるだろう。賢いやり方か、賢くないやり方か。人を殴れば分かるというやり方は賢くはない。喧嘩になるだけだから。だからといって、「暴力はすべてをこわす」とか適当な辻褄合わせをしろというのではなくて、むろん。そうすると僕みたいに不平を主張するほうがいいかどうかはともかくとして、やっぱり1回、舞台というのは本当なんだ、仕掛けじゃないんだと思ってもらわないと、物事がてんから成り立たない。つまり、舞台が本当なんだ、現実と対応しているし、現実を超えているんだという風に。虚構だからといって、仕掛けなんだとはしない。僕はとくに芸術主義者じゃないし、現実があるはずだといつも思っている。現実のほうが問題だ、劇場のほうが問題だといつも思う。萬斎に関していうと「顔」が現実のはずなんだよね。しかしながら、彼は美男だし、喉もいいから、いろいろやるわけじゃないですか。いろんなとこで活躍しているのを僕も見ているわけだけど――「陰陽師」!――、ここら辺から、やや、ややこしい話になるわけです(笑)。芸術監督というのは、仕掛けじゃないものを見せなきゃいけない。「魂」とか一般意志の形成というもの。ちょいと芯の堅い、ちょっとやそっとでは崩れないなにか。そうじゃなかったら全部、世のなかは銭稼ぎにすぎない。名と地位で世渡りをしているにすぎない。いまは芸術に限らずそうなんじゃないか。僕は、公共劇場がたくさんつくられたけど、そのことはほぼだれも手をつけていないというか、考えていないという気がするんですよ。

 それで、萬斎はなまじ素材がいいだけに、そのことがパラドクサルに働く危険があるという気がして。かれには劇場の芸術監督というのをきちっとやってもらいたい。そして、本当に越境する伝統というのができるなら、それをやってほしい。そうしたら、瞠目するだろう。かれは貪欲にいろんなものを吸収しようとする、そのことはとてもいいと思う。守章さんの『死者の書』(能ジャンクション『當麻―折口信夫「死者の書」による』)なんかに出ているというのは評価できる。折口信夫を語ろうとするという試みなんて壮絶。これは、要するに向こう側から死者が来るという話。その感性がない限り、鬼であろうと六条だろうとできないわけさ。死者が甦ってくるという確信がなければ。能にはそれがあるじゃないの。死者の出現が発端なんだから。というか、生霊なのだから、話は。リアリズムの西欧にはその、恨みとかなにかが立ち戻ってくることはまずない。能のような亡霊はいない、普通。シェイクスピアだけだよ、唯一そういうものがあるのは。アングラには執念のごとくあったけどね。「伝統」ですらなく、もう過去にされてしまった。


◆「アジア」・資本主義・そして、「西欧」

 したがって、西欧がいいといっているのではなんらない。ただ学べるものは学べるということ、なんだって。僕、そのことを今秋フェスティバル/トーキョーでしゃべりましたけどね、わずか20分ですが、太陽劇団のDVD放映のあとのトーク。ムヌーシュキンのアジアって主題。諸民族のユートピア劇ならマヤコフスキーがいるよという話を入れて。ヨーロッパには、太陽劇団を含め、アジアという色を挿入して当たっている例もあるね。この秋東京にきたロベール・ルパージュとか。あとのほうの、カリグラフィ(書道)の幻惑や西欧人の身勝手な養子探し騒動を綴った物語舞台は上海だったけど、10年か20年前だったら、おそらく京都か奈良か、大仏のある鎌倉だったろう。これって、換言すれば、単純に日本の資本主義が中共中国の資本主義に抜かれたということの文化的証しにすぎない。僕らは知るべきだよ、この不景気は当分続くことは。だから、アジアといわれてもね、全部のアジアは一地域ごとに違う、ヨーロッパのように、そうそう楽には一元化できない。そこでアジアと立てられた僕らは困ってしまう。そこらは守章さんがご専門のクローデルとか、ヴィクトール・セガレン(※4)とかが論じたことだよ。それらを経由して、アジア、中国やこの国やフィリピン等々を横断してくれるならいいけど、まったくそうじゃないんだから。それぞれ固有性があり、複層してもいることをまるで捉えない。
 つまり、太陽劇団の場合、それが概ね成功している理由なんだが、皮肉なことにヨーロッパで、アジアというのを振って、そこでヒューマニズムを語ってしまう。アリアーヌ・ムヌーシュキンさんは善意溢れる、優れた演出家なのだけど、要は異なったものの巧みな同一化というか、昔の語でいえば、アプロプリアシヨン(appropriation)、我有化する、わがものにする。他者をわがものにするんだ。つまり今日風に言えば亜流のオリエンタリズムではないか? と僕は首を傾げるんだよ。そこでアジアと言われているものが一体何なのかと言えば、結局、伝統芸能だよね。しかも、能では決してない。ヨーロッパは型になっているものしか、絶対に活用できない。つまり型になっているものだけは盗めるわけだ。現代演劇というのを一切見ようとはしないわけだ、彼女は日本に来て、素晴らしい体験をしたと、つねにいっている。それは各人の勝手だよ、それで、という具合でないの。僕は日本文化という純粋なものがあると主張しているのではないですよ、そんなものは「神話」です。そういう種類の固有性ではなくて、どっちみち、現代日本には非常にいろんな「知」の様態があるのに、その複数の「知」とこれらの西欧は「対決して」いないといっているだけなんですよ。東洋的な「型」の発揚に刺激を覚えるというんだったら、そのこと自体、「出来事消費主義」、イヴェント主義と変わらないと思うんですね。

 実は劇場の問題ってこういうこととなんかよく似ているし、パラレルじゃないのかな。こんなにたくさん劇場があることを演劇人はあまり疑問に思っているようではないし、採算が成り立つのかという問題もあるわけじゃないの。採算が成り立つ前にまず、採算をいう前に客をいっぱいにしたいんだというのであれば、なぜいっぱいにするのかという、商売以外の根拠が要る、舞台の側にね(商売があるという面は否定しませんよ、ひとつも)。「私がいるんだもん」じゃあ根拠にはならない。チラシの写真の自己循環と同じことになっちゃう。それで、いっぱいでなくてもできるとか、公共の力でやるという場合は、あえていうと、ヴォロンテ・ジェネラールが根拠になくちゃいけない。企画はたった1人でも立てうるし、かつまた、客席がたった1人でもそれがヴォロンテ・ジェネラールなんだという確信と想像力です。ヴィラールやプランションにあったのはそれよ。ヴォロンテ・ジェネラールというのは現にいる観客とは限らないから、おそらくは来ていない観客、いつかの観客をも見据えて、ヴォロンテ・ジェネラールを形成するということ。その意味では、隠されているだれか、「一者」がいるんだ、いつだって公共劇場の客席の闇には。それはマジョリティということとはそんなに関係はないんだと思うの。ミノリテ(マイノリティ)とかマジョリテとかいうことが最大の問題ではないんだ。「マジョリテ」という記号を過剰に意識しすぎているんだと思うんだ、メディアを当てにしているひとたちは。自分の身をさらすことが、マジョリテへの奉仕(サーヴィス)だと錯覚しているのではないか。演劇だけはそれをやってほしくないと。テレビなら我慢する。見るけど、僕。見てぶつぶついっているわけだ、毎日(笑)。「テレビにいったって、しようがないでしょう」って妻に叱られて、でも「いや、聞こえるかもしれないだろう」と答えて(笑)。だって、ヴォロンテ・ジェネラールって科学ですかといわれたら、かもしれない、でないかもしれない。ではあれ、「民衆」がいるという以外に公共の根拠はないよ。名や写真のからくりじゃないんだ、芸術は。

 そこなの、根源的にここでの演劇というのがどこかでずれてしまっていると思えるのは。ヨーロッパがとてもいいとはいっていない。西欧だって、さっきのオリエンタリズム的な問題があるわけさ。アジアというものを立てればなにかが成り立つという構造が依然あるように思える。となると、個人的に僕はこの狂言が好きだけど、だけどたとえば日本の演劇の現代だという風にいうとすれば、いろいろ議論が必要になってくるんじゃないか。その議論を飛ばしてしまうのはよろしくない。狂言を萬斎が活性化しようとしているということは分かるし、いいことだけど、伝統芸能というのは自明に「何か」であると思わないほうがよくはなかろうか。やっぱり「越境する」という決意がいる。越境するにはスリルもあるし、危険も伴う。したがって、太陽劇団がこの「舞台」を招くというのは慶賀すべきにはちがいないが、僕はそう手放しでは喜べないよ。

 だから、康也さんのエスプリはすごく買えるんだけど、そこがアンビバレンツになってしまうの。すごく、「ややこしや」「ややこ こいしや」は、うまいなとのけ反るんだけど、紙一重、型を器用に使っているともいえるわけ。いつもそのきわどいところにあると思うんだ。要するに一線にとどまってなにかをやろうとしているひとは、いつだって紙一重の場所にいる。伝統は越境しない限り、現代演劇にはならない。公共劇場の問題は「いま」であって、かつ「ヴォロンテ・ジェネラール」というのを形式化できるかどうかというこということに尽きるんだから、難しいことはむろん承知でいっている。いま、僕のいっていることを体現してくれる公共劇場が二、三あればいいんじゃないかな。つまりヴォロンテ・ジェネラールという在処に、身体でふれてくるひとがなにかを語れる場。理屈じゃなくていいから。そこから方向性やレパートリーを創ってくれるひとが。つまり、客が入ればいいとか、採算はとれなくとも受ければいいとか、そこそこカルチャーを売ればいい、そういったことを超えたレベルというのがたぶんあると思うよ。下手すれば、カルチャーがありすぎてどんどん凡庸になっていく隘路だってあるんだから。といって、対極で、日本現代文化の批評という“役”をサイモン・マクバーニーに振ればいいって問題ではない。もちろん『春琴』はとても良い舞台ですがね(もっとも、僕は最初のヴァージョンのほうが段違いに昂奮したな)。

 商売の話なら、うまくやってとお願いするしかないわけで、僕にはどうすることもできない問題。英語ができなくちゃいけないというCMがいっぱいあるね。この「グロバリゼーション」の時代に50年は遅れていると思うよ、英語ができるって、いや、もしかしたら役に立つかもしれないけど、そんな程度のことではない、これからは中国語ができなくちゃいけませんという時代が来るかもしれないじゃないですか。グロバリゼーションとは、要は、成長しつ続けている圏が勝つということでしょ、とうの昔に高度成長をやって、いまや大勢が巷で野放図しまくっているときに、大発展してくる中共中国の資本主義に敗けるのはいわば当たり前だ。高度成長の代わりに高度下落があるかもしれない。それでも、政治家も経済人も変にうろたえたり、おたおたしないで、働きたい者が働けて、生活ができるようにきちんとしてくれ、妙なことで異国といさかいしないでくれと要求しておくしかありませんね。「知」と芸術の領域は貧乏しながらでもやることはやれるはずだろう。

 そのことに眼くらまし、眼もみえないほど煌々たるスポットを浴びせかけているのが「CM世界」(小林真理さんのいわれる、その「幻覚」)、CM世界というのは、実はこの地のメディアの構造でもあるわけだ、同時に。概ねこれで話が円環したよう。


◆2010年の終曲

 以上、萬斎だけの話ではないということはとうにお分かりですね。ヴォロンテ・ジェネラールというのは、要するに運動のことなんだ。一人で運動はできない。二人では夫婦になるだけ、五人から五十人までの世界だよ。やっぱり「民衆」にいく。一人一人の人間がいて、どういう境遇であれ、ヴォロンテ・ジェネラールを体現できるかどうか。だから、演劇人はあんまりみっともない真似をしなさんなと思う。いかな僕でもこれをいうには途方もない勇気が要るが、でも、もういうわ。芸人たちよ、所詮、君らも民衆だろう。演劇人だろう、メディア“芸能人”じゃないはずだというところから確認をはじめようじゃないの。僕は理屈を語ったから、あとは“演劇人”が実践で、それぞれがその覚悟を引き受けてほしい。やや、ややこしい話になったけど(笑)、『まちがいの狂言』はかなり紙一重なんだ。萬斎さんには芸術監督として、「越境する伝統」、いやいや、越境する演劇というのを本当にやってほしい。心からそれを期待しています。
 今日、僕は意地悪をいったつもりはなくて、応援かたがた、もう一度開始時点を定めたかったんだ、やや堅くても、やや反時代的でも。だって、公共劇場10年とかいっても、まともに悪戦しているのはそれぞれの現場なんだから。「知」と運動においてほんとうに苦しまなければならないのはいつでも芸術監督よ。そういう任務を負っているんだ。
 ふう〜う。これで僕もやっと2011年年始の「イヴェント料理」が食べられるかなあ(笑)。

<編集注>
※1 高橋康也 (1932-2002) 英文学者、シェイクスピア研究の第一人者。 
※2 『渡邊守章評論集 越境する伝統』(ダイヤモンド社)、フランス文学・演劇研究者。
※3 太陽劇団 パリ郊外ヴァンセンヌの森の弾薬庫跡を本拠に活動を続ける現代演劇集団。
   女性演出家アリアーヌ・ムヌーシュキンを中心に結成。
※4 ヴィクトール・セガレン (1978-1919) フランスの詩人で医師。考古学分野などにも
   業績を残した。

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2011年1月 1日 00:00に投稿されたエントリーのページです。

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